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『セレブリティズ』 ★★  ケネスはアレンのマストロヤンニたり得るか??
ケネス・ブラナー/ウィノナ・ライダー/メラニー・グリフィス/シャーリーズ・セロン

 それほど好きじゃないよ、と口ではいいながら、またまた観てしまいました、ウッディ・アレン作品(ほんとは相当好き。ただ、マニアの人とはおなじ好きでも話が合わないんですよね、どうも)。この作品はアレンが基本的に好き、という人にはぜひ観てもらいたい、とても興味深い映画です。
 まず、アレン版
『甘い生活』、という煽り文句に惹かれますが、これはたしかにそのとおり。ただ、おなじモノクロ作品ということで画のちがい、そして元祖フェリーニの『甘い生活』のエンディングの深々とした絶望感と比べれば、やはりどうしても軽すぎる印象はありますね。まぁ、アレンですから、それもいいでしょう。持ち味です。(『甘い生活』は僕は大好きな映画ですが、観た後、やはりぐったりしますよね?)
 また、この映画オールスターキャスト的な面があり、そちらの角度から楽しむこともできます。シャーリーズ・セロンはやっぱり綺麗ですね、この世のものとも思われない。それから基本的に僕は大好きなメラニー・グリフィス、ここではセクシーなハリウッド女優の役で、自身のカリカチュアライズ的なところなのですが、思えばこういう役をやるとしたら、まさにメラニーははまり役、ハリウッドではちょっと他にかなう人がいないかもしれません(『Dearフレンズ』でしたっけ? デミ・ムーア、クリスティーナ・リッチ等との共演作、あれを思い出したりして下さい)。ふたたび『甘い生活』と比較すれば、ここアニタ・エクバーグの役どころとなり、おなじセクシー&ゴージャスとはいえ、ここでもやはりアレン版の軽さを感じますね。いや、いいんです。持ち味ですし、アメリカ映画ですし。。。それより、僕がこの作品で興味を覚えるのは、おなじ論法で、ではアレンにとって、ケネス・ブラナーはフェリーニにとってのマルチェロ・マストロヤンニなのか??という問題です。
 ご存じのとおり、アレンは自身の出演作と監督のみの作品を交互に撮り、安定的な人気のある前者を担保にして、「ほんらいやりたい」後者を撮るのだ、というインタヴューを目にしたこともあります。ほんとにほんとうは自分は出演せずに監督に専念したいのかは???ですが、人気の面だけでなく、この両者にはどうしても質的なちがいがあります。つまり、アレンが出ないとなると、いわばアレンにしか演じられない人物、というものを登場させられない、ということになるからです。ところがここでのケネス・ブラナー。まさにアレンのせりふ回しです。(どうしてでしょうか、イギリスの俳優は、mimicといっては悪いでしょうか、とにかく、たとえばアクセントとか訛りとか、ほんとうに器用に演じますね、一般に)
 監督フェリーニにとってのマストロヤンニは、まさに自分を仮託できる俳優でした。ヒッチコックにとってはジミー・スチュアートがそうでしょう。そういう俳優が、これまでアレンにはいなかった。というか、必要なかった。このあたり、正確に言い当てることは厄介なのですが、彼自身が演技者なので、初次的には、フェリーニにとってのマストロヤンニにあたる役者を見いだす必要がなかったわけです。いわば自己の分身を演じる役者を考えたとき、自身が卓越した演技者であれば、もちろん本人自身にかなう人はいないし、自分でやってしまったほうが早いし、また自分で演じることを当て込んで役を書き、さらに自分でやることによって、ますますのその役はアレン自身にしか演じられないものになる、といったある深化を必然的に遂げていったのだと思います。
 ところがここに「天才」ケネス・ブラナーが出てきて、まさにアレンそっくりに演じてしまったわけです。そういうわけでまず、おなじアレン作品でもアレン自身の出演しなかった作品ではこれまでは不可能だった、アレン出演作のテイストを、はじめてアレン非出演作で実現してしまったという、これは画期的な質を持つアレン作品となっています。つまり、先に僕がいったこの「2種類の」アレン作品の質的な乗りこえが、ここでは行われているのです。まずそれが、この作品の面白い点です。次に面白いのは、その結果なにがおこったのか、です。
 この作品のケネスの役は、まさにアレンがこれまでくり返し演じてきた役のパロディです。ところが、その見馴れた人物像が、まったくちがう印象を与えるのです。別れた夫婦のうち、夫はいろいろ苦労しながらも愛や幸せを見いだせない、一方妻はそれなりの幸せを手にして行く。そのそれぞれのプロセスを並行して描く、といえば、これが典型的なアレン作品の構造を持っていることはすぐ判るでしょう。けれど、そこでいわば「アレン役」を演じるのがアレン自身でなくケネスになることによって、たとえば、エンディング、そうして幸せになった元妻を暖かく見守り承認する夫、その姿が単純にいって、優しく見えるのです。これは困った人だけど、でもすごくいい人じゃないか、と単純に思えるのです。この構図が、アレン自身が演じたときとはちがい、屈託なくストレイトに理解されるのです。素直にしみじみと、ほとんど健気な人に見えるのです。たとえば、あれはローワー・マンハッタン、サウスストリート・シーポートのあたりでしょうか(ちがうかな??)船の上からGFが、彼の書き上げた小説原稿を海にパラパラと捨てていく場面、僕は「あーーーーーっ」と叫びつづけてしまいましたね、いや、ほんとに(ここには職業的な衝撃もアリ(笑))。とにかく、素直に共感、というよりcompassionateできるわけです。これは、じつはアレンがいつも書いていたスクリプトが、ほんらいどういうものであったか、じつはどういう可能性を、力を持っていたかということを、はからずもたいへん判りやすく僕たちに提示しているのではないかと思うのです。(その素直な了解がアレン自身の演技によっては阻害されている、とまでいってはいいすぎかもしれませんが、ほんとうのアレン好き以外にはやや判りにくい、つまり、まずアレンの存在自体が鼻につき、その背後にあるほんらいのスクリプトの力が見えにくくなってしまう。この事態の根本には、演技者でありながら監督としてその世界それ自体をディレクトしているアレンの立場の二重性があり、おかしないい方にきこえるかもしれませんが、そういう形で表現できる、アレンの表現したい世界には限界があった、ということだと思います)
 さて、僕の興味は、今後ふたたびこのアレン=ブラナーというコンビがありうるのか、ということです。いいかえれば「天才」ブラナーがアレンのスクリプトにどれほどの深さや共感を見いだしているのか。そしてアレンがブラナーを本質的に必要としているのか――つまり、彼にとってのマストロヤンニを必要としているのか、という問題です。政治的な要素はよく判りませんので、ことはそう単純ではないでしょうが、もしブラナーが今後ともアレンのスクリプトで演じることを喜びとし、アレンがブラナーの起用の重大性を理解したなら(もちろん、その理解なしにはその後にどんな作品的深化もあり得ませんが)そこにはアレン作品の新たな広がり、いわば「第3の道」というものが生まれてくるのではないか、と思います。それはもしかしたら最良とはいえないかもしれませんが、アレンの作品世界のひとつの頂点となるものとなるでしょう、と僕はここで予言しておきます。この作品が、たんなるアレンのセルフ・パロディの一作として終わるのか、否か(そうであれば、これはメタ・レヴェルでいって、これまでのアレン作品とおなじ質のもの、肥大化していくセルフ・パロディの循環でしかなく、その自己完結した世界、その域を越えないことになります)。。。僕自身の小説の作風とも重なる部分が多く学ぶところが大きいので、この今後には、たいへんな関心を持っています( ;

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