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5.どんな人も楽ではない、ということは、頑張って、努力をして、ようやくいまの自分の姿がある、と感じている、ということでもある。つまり、自分を本来的に弱いものとして捉えている、強者ではない、と捉えているということになる。
以前僕のホームページで、「東京の悪口をいう人がよくいるが、ほんとにそう思うんだったら東京から出て行けばいい」と書いていた人がいて、そういう理屈はおかしい、と咄嗟に僕は思ったのだが、この僕の反応は、僕がここ数年「この国はおかしい」と思っていることとじつは関係していて、いまこの国には、そういうことをいうと「ほんとにそう思うなら日本から出て行けばいいじゃないか。そんなこともできないくせに!」といわれそうな空気がある。だからこそ、僕はこの国はいまおかしい、と思っているわけだが、それでは批判を許さない、全体主義のようなことになってしまう。
ひとつには今この国の人たちがそれだけ心の余裕を失っている、追いつめられていることの表れでもあるだろう。「せっかく俺が頑張ってこうしてこの国で生きているのに、ほんとうに嫌なことをいうやつだ」というような気持ちだろうか。
前回のエッセイ集『犬、猫』を読んだある知人が僕に「お前、結構いいたいこといってるぜ」と、それをちゃんと自覚しているのか、そしてそれはやや、どうなのか、という風情でいったのだが、しかし、物書きが自分のいいたいことを書くのはあたりまえの話だろう。物書きがいいたいことを書かなかったら、それこそどんな価値もないかもしれない。
ともかく僕は、東京がほんとに嫌で、でもいろいろな都合でやむなく東京に住んでいる人もたくさんいるのだから、というあたりまえの話をして、それではうるさい、黙れ、というようなことになるし、それは強者の論理だと思う、とコメントした。
すると、私はぜんぜん強者なんかじゃないんですけれどどうでしょう、という反応があった。
なるほどなぁ、と思った。
強者の論理を展開する人が、必ずしも強者ではない。少なくとも、自分を強者だと見なしていることは、むしろ、ない。このあたりが難しい、捉えにくいところだろう。
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たとえば、これを学校の例に置きかえて考えてみると、話が多少簡単になるかもしれない。
教科書を1度も見たこともなく授業中に起きていたこともなく、毎回テストは満点、という人はまずいないから、どんな生徒も自分なりに試験の準備をする。だからいい点を取る優等生は、テストの点が悪いのは勉強しない者が悪い、と大抵自然に考えている。ここでもまた、自分は強者ではない、という意識を起点にして、強者の論理が生まれている。
6.たとえば公立の大学に行きたくても偏差値が低く、やむなく私学に行ったとする。当然学費は高くなる。それを、勉強しなかった者が悪いのだ、ということはもちろんできるだろう。
しかしこの世界は、みんなが勉強することはありえない、ということをいわば“当て込んで”成立している世界だろう。だから、勉強すればいいじゃないか、というのはただの理屈であって、もしほんとにみんなが突然勉強してしまったら、いまの世界は応えられない、報うことができないわけだから、それはただの空っぽのことばに過ぎない。
また、その強者の論理を、ここでは勉強をしなかった・できなかった者が受け入れているから、この世界は成り立っている、ともいえる。「確かに自分の努力が足りなかった、悪いのは自分だ」と彼らがどこかで思っているからこそ、この世界は成り立っているのだ、と。
もし彼らが、冗談じゃない、俺はなにも悪くない(そう思わない根拠は、実はなにもないのだから!)高い学費を払わされる理由はない、と本気で思ったり、そもそもなんで大学なんか行く必要があるんだ、と思って、たとえば街にでてみな愚連隊のようなものになってしまったら、いくらあなたが勉強したって、この世界の秩序は保たれるわけもなく、あなたがいくら成績がよくてもそれにはなんの意味もない。
成績がいい人がいるのは成績が悪い人がいるせいだ。努力をする人がいるのは努力をしない人がいるからだ。これは、ただのコントラストや対称といった概念の話ではない。成績がいい人は悪い人に、努力をする人はしない人に、それぞれほんとうに支えられているのだ、ということになる。
世界がこうして曲がりなりにも機能しているということは、一生懸命頑張って努力をした人々の功績である、という以上に、一般には、別に立派ではない、それこそ自己責任だ、といわれてしまうような弱い立場の人たちが、それを許しているからだ、ということもできる。この世界は、その姿は、常により小さいもの、より弱いものによって授けられているのだ、といってもいい。
こういうふうに世界を捉え直してみることに、意味があるのではないか。
7.自分のことを説明して、僕はよく簡単に「へそ曲がり」というが、これはその場で大勢を占めるもの、主流であるもの、正論であるとされるもの、つまり強いものに共感することに抵抗があるためだ、と説明することもできる。
強いもの、といったって、客観的に強いもの、ということではなく、その場その場でみんなが「そうだそうだ」といっていることには、まず距離を置いてみたくなるのだ。
「ブルジョアはロクなもんじゃない」といわれれば、ほんとだろうか、と首をひねり、「それは失敗したもの自身の能力不足だ」といわれれば、そうなんだろうか、と疑う。やっていることは、ただのへそ曲がりだし、ただの回り道になる場合がほとんどかもしれない。けれど、僕はとりあえずそう考えてみることを止めようとは思わない。むしろ、できる限りそう考えたい。
みんなとおなじ立場、というのは強い立場だ。その立場に立つことは、結果的に人を強いものにする。そして、強いものとしてみた世界は、僕には、何か本質的なものが見おとされている世界であるように思える。
***
常識的な基準で、あるいは一般論として、強者なのか弱者なのかではなく、“その場その場”においてより弱いものに、いちばん弱いもの、いちばん小さいものに共感することができなくなったとき、結果として人は自然に強者の論理に立つことになるのではないだろうか。
そうでなくても、物書きはいうに及ばず、そもそもものごとを少ししっかり考えてみようというような心のゆとりのある人は、傍目から見て強者であるか弱者であるかにはまったく関わりなく、その時点で既に強者の論理に立つ可能性がある(「(自分にも考えられるこの程度のことが)判らないのは考え方が間違っているからだ」「ロクに考えようとしないからだ」…ね?)。ものを考えるとき、人は常に強者の論理から身を退いて、安全地帯に立つことはできない。できることは、できるだけ長い時間帯に渡ってそれを避けること、その場で可能な限りいちばん小さいもの、いちばん弱いものに身を寄せて、何度となく、世界を見つめ直していくことだけだ。
そしてその時、そこから見える世界こそが、より本来的な世界だ。
サンテグジュペリがいうとおり、人はだれしも最初は子どもだったが、そのことを憶えている大人は殆んどいない。人間はみんな本来小さく、弱いものであり、結局のところ、それが本質だ。小さく、弱いものとしての視点を失うことは、自分にとってより本来的なものの見方を失うことであり、その視点から見える世界、自分にとってより本来的な世界を失うことではないだろうか。
© yuichi hiranaka : iHIRANAKA
du seize août au dix-neuf octobre 2004
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