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強者の論理


1.

 以前のこちらのシリーズ《語学アラカルト》で少し触れたような理由で、ある時期を境に僕はあまり外に出かけなくなってしまった。長篇でいえば『アイム・イン・ブルー』の初稿700枚を、僕としては破格のほぼ1年フラット(!?笑)で書いてしまった頃から、だろうか。

いきなり修道僧のようなライフ・スタイルになったわけだが、それまでのgoing to a go-goな(は嘘だが)毎日とは、これはかなりの落差がある。いい悪いは別にして客観的に、僕はかなり本式のエピキュリアンだろうと自分でも思うのだが、出かける気がしないとなると、それに逆らう気は毛頭ない。

でもそれでは不自由もむろんある。結果的に外食をしなくなることもその一で、レストランでのようにゆっくり娯楽としての食事をする、ということがなくなってしまう。メニューも抛っておくとどこまでも簡単になろうとする。

それで、一時期、本屋へ行くとやたら料理の本のレシピばかりを見ていた時期がある。…本式のエピキュリアン、などといいだしたのは、と、このように、ある基本がそこあると、そこは頑なに妥協せず、その代わり、そのためには、通常人が呆れるような面倒もわりに平気でやってのける、というようなことをいいたかったわけである。これを合理ととるか、非合理ととるか。それは個々人の生き方の問題、だろう。
――まぁ、偏屈、の一言で片づけられてしまうかもしれない。それも、また、よし。否定は、すまい。

 さて。レストランを彷彿とさせる料理を自分で作る、となると、どうしますか? やはりまず、取っつき易いのはイタリアン、ではないだろうか?
 そこで、当時出回っていたイタリア料理の本ならずいぶん読んだようにも思う。

料理の本、というのも読んでいくと、これは実はかなりピンからキリまでで、ほんとうに素的な本もあれば、殆んど犯罪的(笑)な本もある。気取っていて、でもちゃんとそれなりの内容を持つものもあれば、一見素朴だが、実際に作ってみると、本当にこれはいい本なんだな、と思えるものもある。
 なかには読み物として面白い本もあって、僕は物書きなので、そういう本には本来の目的をやや度外視して(料理の本はまず実用書、そのレシピで実際においしい料理ができるか、ということが問題なのだろうが)思わず注目してしまう。

 それで、一瞬買おうかと思った本があって、というのも、その本は料理の本にしては、なんというかかなりドグマ(通常、教義と訳しますね)ティックなところがあり(というと、独断的、という訳にもなりますが)そこが読んで面白かった。

つまり、要は火の通し方で、そこにはこれ以外は絶対にありえないという、絶対のポイントがあり、そのポイントをつかまえられるかどうかに料理の全てはかかっている、ということがひとつ、全篇の骨子となっていた。面白いなと思ったので、もう少しで買いそうになったのだが、結局は買わなかった。

 さらに読みすすめていくと、小さなことかもしれないが、そこに僕にはほんとうに不愉快な、腹の立ついい草があったからだ。



2.

 いや、腹が立つ、といっても、それはほんとうに些細なこと、ふつうだれも目くじらを立てたりはしないところに違いない。しかし僕は、これを読んで、ほんとうに腹が立った。曰く、

「ハーブはあくまでフレッシュでなければハーブには非ず、乾燥ハーブなんかを入れることは愚の骨頂、料理をまずくするだけだから、そんなばかなことをするくらいなら、何も入れないほうがはるかにマシである」

 なるほど、と思う人もいるかもしれない。いっていること自体は間違っていないかもしれない。だけど僕はこういういい草は許せない。

 いったい人が料理をするというのはどういう気持ちだろうか。それも、わざわざ料理の本を読んでまで。会社や学校に通ったり、忙しい日々のなかで、何かちょっとおいしいものを食べてみたい、手間がかかってもいいから。そういう気持ちだろう。
そういえば、こういうハーブがあったな。あれを入れたら、この料理はもっとおいしくなるかなぁ。ハーブを育てたいけど、いくらヨーロッパでは雑草でも、日本では失敗もするし手も掛かるし、そうだ、乾燥ハーブを入れてみよう…。

確かに乾燥ハーブの味は、かの本の著者には認めがたいものなのかもしれない。どこまでキッパリ否定しても、しすぎるということはないものなのかもしれない。

けれど、日々の暮らしのなか、せめて乾燥ハーブでも入れてみよう、おいしくなるかもしれないぞ、とふと思う人の小さな気持ちが、どれほど愛おしいか。どうしてそういう人の気持ちを、自分の主義主張の表明のために徹底的に踏みつけにしなくてはならないのか。どうして「ハーブはフレッシュのほうがいいですよ。とりあえず乾燥ハーブを入れてみるのもいいけど、それで済ませてはほんとのおいしさは判らないから残念です。乾燥ハーブとは味が違いますから、ぜひともフレッシュを試してみてください」くらいのことにできないのか。それで十分ではないか。

この著者から見ればばかげた行為でしかないとしても、人が料理の本を読むのも、彼の主義主張に耳を傾けてくれるとしたらそれだって、そのおおもとは全て、乾燥ハーブでも入れてみたらちょっとでもおいしくならないかな、なったらいいなぁ、という、そんな小さな気持ちにこそあるんじゃないか。こう僕は思ったのである。

   ***

 僕がそこまで反発したのは、また、これが強者の論理だ、と思ったからでもある。
 強者の論理。日本ではよく使われることばだが、実際には、それはどういうものか。意外にこれは、一筋縄では捉えにくいことのように思える。
 また僕はそれを、ただの常識として、穏当なひとりの大人として、ということではなくて、このようにかなり激しく退けるものなのだが、それはなぜか。
 今回のシリーズでは、このあたりについて上手く説明できるか、いち度やってみようと思う。僕にはこれは、かなり肝心の問題、自分のさまざまな表層というか、現象を説明する上で、かなり本質的な問題のように思える。



3.

 95年の地震の後の話である。TVを見ていて、怒って電話をかけてきたヤツがいる。某文化人が行政の対応を批判していたらしいのだが――このあたりについてもほんとはあれこれ思うところはあるが、この際それは措くとして――その論旨はともかく、そこでその人物が、
「西宮みたいなブルジョアな町がですよ」といい放った、という。それでなぜ彼が怒ったか、といえば、曰く「西宮に暮らしているたくさんの女のコたちの日々を、いろいろに一生懸命に生きている彼女たちのさまざまな想いを、ブルジョア、なんてひと言で片づけられたくない!!」
 …いやはや、これも相当突飛な怒り方だとは思うけど、いいたいことは判るような気もしますね。

 美しい心が、弱い立場、弱いもののなかにしか生まれない、と思うとすれば、それはまったくのファンタジーだ。

 美しい心は、普遍的だ。悪徳はさまざまな顔をしているが、美徳は驚くほど似通っている。そして人は、あらゆる場所に美徳を見出すことに驚く。プルーストはそう書いている。
 単純にミニマリズムだとかマナー小説だと説明してしまうこともできるかもしれないが、僕は小説を書き出した最初から、わりに物質的には豊かな状況のなかに限定して、人の心を捉えようとしてきた、といっていいだろう。それはなぜか。

 この著者の境涯がこうこうであるからこういうものを書くのだろうというような、抽象力が殆んど0なレヴェルで読む人は、真面目な本を読む能力が基本的に養われていない人だから、残念だけど、むろん僕も読者としては想定していない。そもそもこの著者は自分が大した悩みもなく生きているからお気楽な子どもたちの日常ばかり描くのだ、というのは殆んど非現実的な考え方で、それほどナイーヴに、屈託なく文章を書ける人間はむしろ稀だろう。

 だいたいこの世のなか、大した悩みもなく生きている人自体がまずいないのは、まともな大人ならだれにでも判ることだ。だから、ここ、あえてそう多くを語るまでもないのだろうが、現在、人はみな安逸な生活、たとえば物質的な豊かさを追求して生きている。もしたとえば物質的に豊かな世界には美しい心がないというのなら、人は地獄に向かって一直線に生きているようなことになる。

いまのこの世界の人の生き方を、基本的に否定しないとすれば、では物質的な豊かさを背景として顕れる、人の美しい心とはどういうものだろう、まずそれを僕は考えてみたかった。そう説明してもいい。

むろん先進国が先導する現在の経済的繁栄は搾取の上に成り立った偽りのものだ、という議論はできるだろう。だからといって、そこにある人の心やその動きがまったくの偽りであるとか完全に無価値であるということにはならないだろう。それは議論の混濁である。

 ともかく僕が描いていたのは当初から、外見としては一見ミもフタもない風俗小説だが、その物語の舞台、世界は、そういう目的に従って選択的に限定した、現実とは異なるかなり抽象的な世界だった。
 何を選択するかは変わっても、選択的で抽象的な世界を描く、という点で切ってとれば、その後僕が書いたもの、またこれから書くものについても、当面変わらないだろう。





失われた時を求めて(3(第2篇))花咲く乙女たちのかげに
失われた時を求めて(3(第2篇)) 花咲く乙女たちのかげに

ISBN:4081440034

失われた時を求めて(3(第2篇))花咲く乙女たちのかげに
失われた時を求めて(4(第2篇))花咲く乙女たちのかげに

ISBN:4081440042

失われた時を求めて(2) 花咲く乙女たちのかげに マルセル・プルースト/井上究一郎|出版社:筑摩書房
ISBN:448002722X
本体価格:1,000円 (税込:1,050円)

失われた時を求めて(3) 花咲く乙女たちのかげに マルセル・プルースト/井上究一郎|出版社:筑摩書房
ISBN:4480027238
本体価格:1,000円 (税込:1,050円)


4.

 美しい心、といってもいろいろなものがあるが、誠実で真面目な努力や、一生懸命な気持ち、思わずほろりとさせられるような健気さ、こういったものは、比較においてどんなに物質的に豊かな背景を持つひとの心にも見出すことができる。

つまりそれは「あるかないか」という問題で、物質的な条件とは関係がない。どんな状況を背景にしていようと、ひとが生きるのはそう楽なことではないんだ、といってもいいだろう。それを自分の尺度で量って、あいつは俺より楽に違いない、などということは、突きつめれば、普遍性はなにもない。
楽かたいへんか、というと判りにくいかもしれないが、それは究極的には幸せや不幸というものとなんら違いのない、心の状態、内面の問題だからだ。

もちろんもし自分が彼の立場だったらいまの自分より幸せだろうと想像することはできるし、そう口にすることもできる。
けれど実際には、あなたの内面を相手は生きることはできないし、相手の心をあなたは生きることできない以上、一方で他方を量ることは、他方が好意でもってそのいわんとするところをくみ取ってくれる、ということはあったにしても、本来はその一方のうちだけで成立する価値判断であり、ローカルな意味しか持ち合わせていない。

こう突きつめずに生きていけるとすれば、それは幸運にも周囲にいる人が一定以上自分と共通の価値観を持っているからで、それこそ僕の立場/ローカルな価値判断では、お幸せですね、といいたくなるくらいのものだ。

   ***

生きていくのはそう楽なことではない、だれにとってもたいへんだ、ということはつまり、多くのひとが自分の弱さ、小ささというものに、日々向かい合っている、ということにもなるだろう。たとえばそれが、先に挙げたような人の美しい心を、状況に関わらず、多くの場所にあらわす理由ともなっている。つまり、人は多くの場合、自分が小さいものである、と感じている、ということだ。だからこそ、たとえば努力をするわけだ。
 けれど、この自分が小さく弱い、という実感が、人の美しい心の顕れのある契機ともなると同時に、強者の論理の起点にもなる。



(次頁へ続く)

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