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 得かどうかはともかくも、英語力がない、勘違い・思いこみが激しい、というのも、なんというか、少なくともいろいろなことを考える契機にはなる。というか、することはできる…。

『アイム・イン・ブルー』というハワイ、ワイキキ・ビーチを舞台にした長篇小説を書いた際、僕はまず、とにかく自分がほんとうに面白いと思えるものを書いてみようとしたので、あの本には相当細部にまで僕の趣味が反映されている。第一に、全体の“ハードボイルド仕立て”いうのも、10代の頃によく読んだチャンドラー作品への愛着からだったが、少なくとも、僕がハードボイルドに求める要件だけは確実にフルフィルした小説になった。その要件は、多いのだが、たとえば(1)自己に対する冷徹な、それこそハードな視点 (2)社会批評性 (3)行動上でも精神面でも自己防衛の手段となる、内声の“華麗な”へらず口、プラス会話のクラフト そしてなんといっても(4)良質のノヴェル・オヴ・マナーズであること――簡単にスタイル、ないし“人の生き方”を書いた小説、といってしまってもいいかもしれないけれど…等々なのだが、早い話、あそこにないことは、ハードボイルドといった時、僕にはまったく無用なことであって、逆に僕の求めるものは全てあそこにある。というわけで一般にハードボイルドといわれる作品の大半は、結果、僕にはそう面白くはない。チャンドラー以外でまず面白く読めたのは、結局ジェイムズ・クラムリー の著作くらいだろうか…。
 同様に、あの小説では小道具も愛着のあるものばかりを選んだが――まぁどの作品ででも、小道具を選ぶ時、僕はできることならそれについて20枚だって書きたいと自分が思えるものだけをとりあげたいと思っていて、これは小説の完成をいたずらに遅らせる問題点でもあるのだが、なかでもとくにこの作品では――エピローグの前の最後の章で、ラジオからコール・ポーターの曲が聴こえてくるという場面を書いた。タイトルを書かなかったのは、あまりにも判り切っているから“つや消しなこと”(c)野崎孝(?)になるかとも思ったからで、もちろん『Every time we say goodbye』のことだ。
 あのシークェンスをざっと書いたあとで、この歌を、念のため、ひさしぶりに聴いてみた。と、ここで、本題に戻るが、またしても、僕は自分のかってな思いこみに気づいたわけで、この歌をずっと、
 Every time we say goodbye, we die a little.
 だと僕は思いこんでいた。…正解は――I die a little.である。
 再び白いものを黒とする、独自のオブセッションのおもむくままにいえば、しかし、これも同様にweの方がいいのではないか。やや大げさにいえば、正解の歌詞ではただたんに別れを嘆くわがままな、センチな恋する女の子の心理を歌った程度のものにしか聴こえない(歌手が女性の場合)。即ち、さよならをいうのは、あなたと別れているのはちょっと死んじゃうくらい =うんと辛い、という意味に聴くのが自然だろう…。
 僕の思いこみがこの歌に見ていたインサイトは、weを人たち一般ととって、さよならをいうたびに、人は少し死ぬ、というイメージだったのだ。
 おかしなことだが、ようやくそこで、つまりこの自分の思い違いを発見したことを逆に契機として、僕ははたと気がついた。
 チャンドラーの最高傑作とされる長篇『長いお別れ』中でも、もっとも有名な名文句 :
 さよならをいうのは僅かのあいだ死ぬことだ。
 このセリフが、じつをいうと、ながいあいだ僕にはいまひとつよく判らなかった。要は、どこがそんなに名言なのか、ということが、だ。ぴんとこないというか、どうしても、ただの気の利いたセリフ、くらいにしか思えないでいた。
 あそこでチャンドラーがいいたかったのも同じように、ショックであるということを大げさに誇張するためだけに、いわば生半可な気持ちでdieということばを使ったというようなことではなくて、もっと切実に、真正面から、少しだけだが本当に死ぬ、ということだったのではないだろうか??――
 慌ててペイパーバックを取りだしてみると、案の定原文は、
 To say goodbye is to die a little.
 これは、やはり、さよならをいうことは少し死ぬ、僅かばかり死ぬことである、という意味だろう…。
 ここ、チャンドラーにまったく興味のないひとのために少しだけバックグラウンド・ブリーフしておくと、そもそも僕が『アイム・イン・ブルー』の最終の場面でコール・ポーターのこの曲をとりあげたのは、チャンドラー読者なら常識だが、先の名セリフを書くにあたり、年代的にいってもまずチャンドラーがこの歌を知っていただろう、と考られているからだ。

 自分の勘違いをますますミョーに正当化するようで、なんなんだそれはというか、我田引水or牽強付会という漢語も脳裏に浮かぶところだが、あえていい切ると、さよならをいうたびごとに人は少し死ぬ、というのは実に深い。
 さよならをいう時、たとえば恋人にさよならをいう時、人はその恋人ともし別れなければ、未来に待ち受けていたであろう人生、自分のひとつの可能性をも捨てている。つまり自分のある一部にもさよならをいっていることになる…。
 たとえばながく付き合った恋人、パートナーにさよならをいうことは、その人とともに過ごした日々、はぐくんだものをあるかたちで、そしてその先にあるはずのひとつの未来を捨てさる、ということだ。それが自分の人生の一部が喪われてしまう、死んでしまう、可能性をひとつ、殺してしまうことことでなくて、なんであろう。

次頁へ続く)



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