| ";
}?>
< 1 prev.
next 2>
mediocrite
学校時代に使っていた仏和辞典でふとmediocriteと引いてみると、凡庸、無能、つまらなさ、とならんで、中位、平凡という訳がでてきて、ちょっと考えてしまった。mediocreと英語でいってもあまりよくない、という形容だし、いまのフランス語ではもっとはっきり「劣った」という意味で使われているみたいだ。この20年でことばの意味がそれだけ変わったというよりも、当時のこの辞書の語義そのものがやや古めかしかった、ということも考えられる。たしかに中位のものとは頂点には及ばないいまひとつのものでもあり、傍目には退屈なものだろう。けれど日本人の感覚なら「中くらい」ということがそう面白くないということは判っても、ここまで明確に否定的な意味合いにシフトしたりはしないのではないか、とふと考えたのだ。
この真偽はともかく、日本人は中くらい、ふつうが大好きなのは事実だろう。それこそ農民の国だったからだろうか、先頭に立って進めば最大の利益を得られるかもしれないが、上手くいかないのもいちばん最初だ。最後についていったのでは利益が得られないだろう。真ん中にいれば、そう極端に大きな利益はないかもしれないが、最初に駄目になることもなく、結果、いちばん長く、こともなく、安心していられる。こういう感じだろう。
このいまの日本のどん詰まり状態が――ここまで物質的に豊かで平和でありながら連日脈絡もなしに大人が子どもを殺し、子どもが大人を殺し、子どもが子どもを殺すこの社会をどん詰まりと感じない人がいるとすれば、おそらくそれはどこかよその星に住んでいる人だろう――もし従来にもあったどん詰まり状態とどこかが違うとすれば、結局その違いの特質は、このあたりにあるのかもしれない。
つまり、日本人は、自分がふつうでありたい、極端な立場に立ちたくない、と考えている。それなのに、いまの日本は、人はみな個性的であるべきだ、ということになってしまった。その動機はグローバリズムないし効率化だろうから、考え方としてはこれは理に適っている。けれど、そうすると結果的にどういうことになるか。この理に適った考えが日本人に適用されるとどうなったか。なんと「ふつうでありたいなら、ふつうであってはならない」というものすごいことになってしまった。日本人はいま個性を尊重し重視しているかもしれないが、その理由は、実はふつうであるためだ、という本質的に矛盾した奇怪な状況がここにはある。ふつうになるためにふつうではないことを奉るという、殆んど悪い冗談のような、悪夢のようなロジックに日本人ははまり込んでしまった。これは答のない問であって、文字通りのダブルバインドになっている。人と違うようになることの目的が人とおなじになることなら、ほんとうには人と違うことはできないし、といって人とおなじにもなれない。完全に宙ぶらりんの、自分でも自分が定かでない、ばらばらに引きちぎられいくような状態になりそうだ。
いわばパンドラの箱を開けた、というか、本質的に矛盾したロジックをあるべき生き方、即ち「ふつう」としてしまえば(!)そこにはもちろん答などなく、それで生き易いわけもない。というより、それでは生きることが不可能になってむしろ当然だ。このあたりの無理、歪みのつけが、弱いところから、日夜ふきだし続けている、要はそういうことなのかもしれない。
< 1 prev.
next 2>
$ua = $HTTP_USER_AGENT;
if(ereg("DoCoMo",$ua)){
echo "△3.Home ";
}elseif(ereg("KDDI",$ua)){
echo "△3.Home";
}elseif(ereg("J-PHONE",$ua)){
echo "△3.Home";
}elseif(ereg("UP\.Browser",$ua)){
echo "△3.Home";
}elseif(ereg("PDXGW",$ua)){
echo "△3.Home";
}else{
echo "[ Home]
|