un bout d'hier 75 ~ le dix-neuf octobre 2004
強者の論理 7
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強者の論理 7
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自分のことを説明して、僕はよく簡単に「へそ曲がり」というが、これはその場で大勢を占めるもの、主流であるもの、正論であるとされるもの、つまり強いものに共感することに抵抗があるためだ、と説明することもできる。
 強いもの、といったって、客観的に強いもの、ということではなく、その場その場でみんなが「そうだそうだ」といっていることには、まず距離を置いてみたくなるのだ。
「ブルジョアはロクなもんじゃない」といわれれば、ほんとだろうか、と首をひねり、「それは失敗したもの自身の能力不足だ」といわれれば、そうなんだろうか、と疑う。やっていることは、ただのへそ曲がりだし、ただの回り道になる場合がほとんどかもしれない。けれど、僕はとりあえずそう考えてみることを止めようとは思わない。むしろ、できる限りそう考えたい。
 みんなとおなじ立場、というのは強い立場だ。その立場に立つことは、結果的に人を強いものにする。そして、強いものとしてみた世界は、僕には、何か本質的なものが見おとされている世界であるように思える。

常識的な基準で、あるいは一般論として、強者なのか弱者なのかではなく、“その場その場”においてより弱いものに、いちばん弱いもの、いちばん小さいものに共感することができなくなったとき、結果として人は自然に強者の論理に立つことになるのではないだろうか。
 そうでなくても、物書きはいうに及ばず、そもそもものごとを少ししっかり考えてみようというような心のゆとりのある人は、傍目から見て強者であるか弱者であるかにはまったく関わりなく、その時点で既に強者の論理に立つ可能性がある(「(自分にも考えられるこの程度のことが)判らないのは考え方が間違っているからだ」「ロクに考えようとしないからだ」…ね?)。ものを考えるとき、人は常に強者の論理から身を退いて、安全地帯に立つことはできない。できることは、できるだけ長い時間帯に渡ってそれを避けること、その場で可能な限りいちばん小さいもの、いちばん弱いものに身を寄せて、何度となく、世界を見つめ直していくことだけだ。
 そしてその時、そこから見える世界こそが、より本来的な世界だ。
 サンテグジュペリがいうとおり、人はだれしも最初は子どもだったが、そのことを憶えている大人は殆んどいない。人間はみんな本来小さく、弱いものであり、結局のところ、それが本質だ。小さく、弱いものとしての視点を失うことは、自分にとってより本来的なものの見方を失うことであり、その視点から見える世界、自分にとってより本来的な世界を失うことではないだろうか。

ご愛読ありがとうございました。
・・・Fin!

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