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2章を脱稿。
長篇の2章初稿を脱稿した。山あれば谷あり。1章は思った以上にスイスイ書けて「あ、この小説はけっこう簡単に書けるのか?」とわけの判らないことを思ったりもしたが、そんなことがあるわけもなく、案の定、2章はほんとに苦しんだ。しかもむずかしいところをどんどん先送りしているようでもあり、ますますこれがどういう小説なのかさっぱり判らなくなってきた。次の3章はどこから書き始めていいのかさえ皆目見当もつかない。だからいまは2章を書き終えて「やった!」というより、むしろ暗澹たる気持ちです。
でも、2章を書いていてひとつ思ったのは、今回の小説は美しい小説にしよう、ということだ。しかし今時小説に美しさを求めて書いている人、なんてこの国にいるだろうか。非常に心もとない。それに美しいといっても、それはそこに書いてあることが美しい、ということではない。近頃、たとえば「選び抜かれたことば」とか評されている文章を見てみると、確かに内容としてはなんだか美しそうなことが書いてあるが文章自体は陳腐な手垢にまみれた表現に終始している、ちっとも選び抜かれたことばなんかじゃない、ということが始終ある。選び抜いたことばというのなら、その選び抜いた結果のことばが“クルクルパッパのラリパッパ”かもしれない。まぁ“クルクルパッパのラリパッパ”は極論だが、そういうことはきちんと考えもせず、内容に美しげなことが書いてあるということに引きずられ、それこそ陳腐なイメージで“選び抜かれたことばだからすばらしい”などと適当に評して悦に入られても困ってしまう。…いや、またしても喧嘩腰のことを書いちゃったが、まぁ、ほんとのことだから、ね。いちどははっきりいっとかないと(笑)
もちろん陳腐な文章に終始していても感銘を与える文章、というのはある。それはたとえばその人のものの見方だったり、「これしかない!」というパッションの力強さによるものだったりする。しかしそれはどれほどすばらしくてもやはり“選び抜かれたことば”とはいえない。ある文章を読んで自分が感銘を受けたその原因がどこにあるのか、この程度の大きな質の異なりさえ識別しないなら、そんな鼻をつままれても判らないような真っ暗闇の中でどんな批評が可能だろう。
具体的に書いてあることは“クルクルパッパのラリパッパ”だったとしても、だからといってそれが選び抜かれたことばではないということにはならないし、それが美しい小説ではない、ということにもならない。
ついでにいうと、今回のヒロインは娼婦です。まぁ、ヒロインといっても『ゴー・ゴー・ガールズ』式のヒロインで、登場回数は少ないですが。
もうひとついうと『ゴー・ゴー』のエンディング、あれはあの当時はあれでいいと思ったんだけど、いまにしてみれば少し不満なところもあるので、今回の長篇はそのあたりのことをもう少し追求してみたいとも思う。『ゴー・ゴー』のエンディングは、いわばカットオフみたいになっていて、それはそれで面白いかな、と当時は思ったが、ほんとはあのエンディングももう少し、やっぱり音楽に喩えていえば、半終止みたいな感じにしたほうがむしろよかったように思う。今回は、上手くできるか、いちどそれをやってみたい。
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