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W e b 特 別 寄 稿
白と黒で 2005 pt.2


 N°5 ピアノの上手いおばさん。

 ボチェッリが世界のスーパースターなら、近年の、日本のクラシックレコード市場のsaviour kingと呼べるのが、フジコ・へミング。
 今日本でクラシック音楽に関係して生計を立てている人はまず、だれも公にはフジコ・へミングについてネガティヴなことをいわないだろうし、また実際なかなかいえないだろう。
 だが僕はこの際、自由にトボケたことをいわせてもらおう(笑)白状すると、僕はどうしてこのひとの演奏がそれほど人気があるのか、なかなか理解できなかった。もちろんピアノの上手いおばさんであるには違いない。けれど、どうしてここまで、大変なブームになるまで…ということだ。
 ようやく最近、この人の出世作となった例のNHKのドキュメンタリーがCSで放送されたので遅まきながら観てみたら、初めてなるほどー、と納得が行った。画像を併せてみると、これはすごい。なんというか、とにかくものすごい存在感、ですね。これはブームになって当たり前だし、この魅力はいくらCDを聴いたって、永遠に判らなかっただろう…。
 この存在感、その源は、たとえば「私はこうなのよ」という決然としたところ、だろうか。とにかく何がなくても「私」はある、という力強さだ。私が私である、ということはあたりまえのことのようだが、それがなかなか困難なのがいまの日本だ。これは思春期の自己形成の難しさ、という近代以降の普遍的な難問、という意味ではなく、いわばいつまでたっても私であることが困難であるというような、いまのこの国に生きる人全員の、しかしこの国に独特の困難さがあるように思う。この件については、僕はいろいろな原稿でさまざまに触れているのでここではくり返さないが(たとえば『ミラノの犬、バルセローナの猫』収録原稿)だからこそ彼女がいま、この国でこれほどもてはやされているのだろう。単なる一ピアニストという以上の存在として憧れられているのだろう。
 もうひとつ気づいたことは、レパートリーが全てホームクラシックということだ。こうみると、演奏自体としてもクラシックにこれまで関心のなかったひとには結果的にたいへん親しみやすいものになっている、むずかしい理屈一切抜きで、クラシックの素晴らしさに触れる契機となるものになっているのだろう。
 ともかく「なるほど、録音や放送で音だけ聴いていてはなかなか判りづらい部分だなぁ、映像って、すごいぞ!」と感心していたら、そのおなじCS放送で、狂ったようにメフィスト・ワルツを弾いている人がいたので、だれかと思ったら上原彩子だった。(まぁ、ものがメフィスト・ワルツですから(笑))放送予定番組の宣伝だったので、これもみてみることにした。




「私が私であること」の辛さ...。
長篇『僕とみづきとせつない宇宙』のテーマも、ある意味ではこのへんに…。
cover
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 N°6 そして上原彩子。

 クラシックファンにはあえてブリーフも無用だろうが、この上原さんという人は日本人で初めてチャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で1等をとった人で、しかも女性。と強調するのは、ご存知の通りピアノはアコースティックの楽器のなかでも最もばかでかい部類であり、歴史的に決して女性向きの楽器とは考えられてはいない。…しかし人口のはんぶんが女性であることを考えれば、近代において女性向きと考えられていたものごとの種類自体がそもそも異様に少なかったのではないか、とも思う。
 説明ついでに、リストといえばまず技巧的に難しいピアノ曲を書いた人、というイメージがある。だからもしメフィストワルツを聴いたことのない人が、この曲を狂ったように弾いているというとつまりそういう技巧的な曲を華麗に弾いていたんだな、と思ってもそれでまずはOK、だ。ただリストは、そういう表層の技巧性の問題から逆に考えられる普遍性、それとベルリオーズ、パガニーニからリストを踏まえR.シュトラウスと行くこのひとつの“音楽の流れ”との関係;また後に国民楽派というひとつのかたまりとして大きく捉えられる音楽史上の潮流にもつながるその民族性/エスノ志向の持つ意味あい;皮相的なものと片づけられかねないが、その宗教、キリスト教、説話に材を採る作品群の存在について&c…と、いろいろに面白い長いエッセイが、リストの音楽を軸としてひとつ書けそうな気がするし、書いておいた方がいいような気もする。同時代のピアノ曲の一方の雄・ショパンの音楽が現代も、いかにメランコリックでエゴセントリックで社会性に欠け少女趣味だと揶揄されはしても、その精神性の深さを否定することはだれにもできない一方で、それと比せば、華麗でマスキュリンなリストの音楽は、その精神性を問題にされることは多くはない。確かに、そんな扱いを受けても仕方ないようなところもあるわけだが:確かに薄っぺらともとれるかもしれないが、ある意味で含みのないその清浄なリリシズムが時々僕は恋しい。…このあたりはしかしまた別の話、今回の本筋とはいささか離れた小道となろう。
 上原さんの話であった。
 そのチャイコフスキー・コンクールの時の映像、これは僕はちらちらとしか見ていないのだが、その限りでは、もう、顎が外れるくらい驚いたというか、殆んど人間が弾いているとも思えなかった…。つまり、先に少し問題にした上手い・上手くない、ということでいうならば、上手いということにかけては、もう、めちゃくちゃ上手い、というのがこの上原彩子である。リストの難曲を狂ったように弾いていたというのをまずそのまま、額面通りにとってもらって結構、というのも、僕のそもそものイメージがそういう、やたら上手い人、というものだったからだ。

 さて、CSで後日放送されたその上原さんのコンサート。こちらは一応、番組全篇を拝見しました。プログラムはショパンのプレリュード全曲、スクリアビンのエチュード、リスト(番組の宣伝にも使われていた、前述の!)、そしてチャイコ、だった。これは非常にポピュラーな、サーヴィス精神たっぷりの嬉しいプログラムだ――とまず思ったのだが、ふともう少し考えてみると、一口にポピュラーといっても、ここに当代最もポピュラーなフジコ・へミングを持ってくると、同じポピュラリティといっても明らかにそこにはかなりの質的な異なりがあるかもしれない。おなじようにポピュラーなレパートリィ、たとえばみんながよく知っているショパン作品を弾く、といっても、プレリュード全曲、というような“仰々しいこと”(笑)をフジコ・へミングはしそうにない(事実はともかくイメージとしては)。このへんがクラシック音楽ファンを越えた彼女のポピュラリティの理由のまたひとつ、だろう。
 この上原番組についてひとついわせてもらうと、カメラ割りが細かすぎて煩わしい、音楽を聴きにくかったという印象があったこと。アイドルのヴィデオではないのだから、こういうことは無用だろう。じっくりおなじ絵で見せてくれたらいいと思う。そして演奏自体も、思ったよりは遙かに“人間らしい”演奏だった。もちろんこれは僕の初期のイメージが、前述のとおり異様に上手い人、というものだったからで、悪くいっているわけでは全然ない。チャイコフスキー・コンクールの時の映像は、僕がただちらちら見ただけだったからそういう変なイメージを持ってしまったのかもしれないし、あるいはチャイコフスキー・コンクールというのは、そんなある種とんでもないことが起こってしまう、特別な場所なのかもしれない。その昔の、諏訪内さんの時の、ヴァイオリン・コンチェルトの演奏がまたそうだったように。

 上手い・下手どころか、それこそ極端にいえば、演奏は、音楽は、ほんとうは、本質的には、間違えていたってどうってことはない。そう、フジコ・へミングもいうとおり、なのだ。













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諏訪内晶子 チャイコフスキー・コンクール・ガラコンサート
チャイコフスキーVn.con.

忘れ得ぬ名演。


 N°7 人生のチョコレート・ムース。

 出世作となった例のドキュメンタリー番組中でも「少しくらい間違えたって構やしないわよ、機械じゃないんだからサ」とはっきり明言していたフジコ・へミング。こういう本当のことをきっぱりいうところ、いってしまえるところが、結果的には痛快で、彼女のポピュラーな人気をまたまたブーストするのだろう。
 きっぱりと私。どこまでも私。音楽だけでなく、そういう彼女の人柄、生き方がこのいまのこの国で、大きな魅力となって、彼女の人気を広げているのだろう。彼女のように生きてみたい。そんな憧れを持つ人は決して少なくないのではないか。芸術家としての才能は天与のものだから真似できないとしても、生き方だけでも彼女のように、いわば自由に生きてみたい。そう思う人は。その憧れは嘘ではないだろう。だが実際にそうする人は多くはないだろう。当たり前といえばごくごく当たり前の話だろうが、このあたりがじつはやっぱりミソであるようにも思える。憧れはするし、その憧れは真実なのだろうが、実際に彼女のように生きようとする人はそうはいない、それはなぜか。ひとつには、彼女の人生はこうして最後に大成功を収めた。けれどこれはだれにでも起こることではない。よしんば才能があったとしてさえ、成功はそれで保証されるものではない。明らかに才能よりも、むしろたいへんな幸運によるものだ。もしも彼女のように自由に生きられたとしても、彼女のように成功しないとしたら…こう思うことはそう不思議ではないかもしれない。
 しかし、考えてみたいのは、彼女の人生が素晴らしいものだとすれば、それは最後に彼女が成功したからなのか、ということだ。だとすれば、彼女の波乱に満ちた半生は、その最後の成功にいわば味わいを添えるもの、たとえばチョコレートムースのようなものなのだろうか? そうではなくて、あえて無理矢理そのどちらかで択らぶなら、むしろ彼女の最後の成功こそがチョコレートムースなのではないのか。そう僕は思うのだがどうだろう。彼女の人生が、もし素晴らしい人生(第3者から見て)であるとするなら、それは何も彼女が最後に成功したからではない。もし成功せずに終わっていても、彼女の人生はじゅうぶん“素晴らしい人生”だったのではなかったか。
 一体自分は彼女の人生の何に憧れているのか。彼女の人生に憧れる人は、このあたりをしっかり自問してこそいいだろう。もし最後の成功とセットになっていて初めて彼女の人生に憧れる、というなら、それはいわばその憧れ自体、人生の中のチョコレート・ムースのようなものでしかない。だからだめだ、とは思わないが、それ以上のものでもそれ以下のものでもないだろう。
 結局憧れているのは成功で、しかも成功がこういう経過の上にあるとなお素晴らしい、というのは確かに夢想としては愉しいが、ずいぶん贅沢な話でもあり、呑気な話でもあるだろう。こういう考え方を平気でする人には音楽は判らない、とも勿論思わないが、そこには、ある《判り方の偏差》みたいなものはあるかもしれない。


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ものすごい説得力の名番組。
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 N°8 あるいは、パリで…。

 (フジコ・ヘミングの言:)「少しくらい間違えたって構やしないわよ、機械じゃないんだからサ」…。
 これは、もちろんここだけとってみればだれにも反対する余地のない、大正論だ。しかしこれは、いってみればちょうど「どんなふうに生きたっていいのよ、ほんとうに幸せならね」みたいなことで、正にその通り、なのだが、実際には、人生の非常に多くの局面で、その「どんなふうに」こそが問題になる。
 大正論ではあるが、実は特段なにも語られてはいない。彼女の口から発せられるからこそ意味を持つ。これはそんなことばだろう。また、だからこそ誰にでも受け入れられ、誰にでも思い入れることのできる、そんなことばなのだろう。…このあたりにまた、いまこの国での彼女の破格の人気の勘所を見るような感じがする。
 ともあれ、何はなくとも「私」である、ということにかけては人後に落ちないフジコ・へミング。行きがかりの偶然ながら、ここに上原さんのコンサートの放送をならべて僕はみた。
 ミス・タッチなど、もはや完全に問題ではない、「とにかく私はこうなんだからサ…」と我が道を行くフジコ・へミング。
 一方、絶対的な技術はありながら、「私」とはなんなのか、はたして「自分の音楽」とはなんなのか、ギリギリと自らに問いつめていく上原彩子。しかし自分の音楽とはなんなのか、といったって、まだまだうんと若い彼女である。もしも結果的に、それが殆んど“ない知恵を絞る”ような様相を呈したとしても、それは決して彼女の責任ではないだろう…。
 ある意味でたいへん対照的なこのふたりの演奏、なのだが、ボトムラインをいえば、僕にはどうしても、断然上原彩子のほうが面白い。30年後の彼女の演奏が面白いかは判らないが、現時点でこのふたりの演奏、どちらか一方だけを聴くとすれば、僕は文句なしに上原を聴く。決して聴いて楽しい演奏ではないが、彼女の孤独な自問自答、常人にはありえない高いレヴェルで徒に展開される、容易くは報われようもない苦闘ぶりが僕にはスリリングでもあり、また、感情移入、共感もできる。…いやいや、まだまだ僕もケツが青い、ということなのかもしれない(笑)…と、こう書いてくるうちに、なんだかこの際彼女のベートーヴェンが聴いてみたい、という気がちょっとしてきた。上原さん、次はベートーヴェンを弾いてください。もし事前に気づくことさえできれば、必ずコンサート・ホールに伺います、と約束しましょう。そうですね…。神戸か大阪。あるいはパリで、でもいいですよ( ; 



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