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W e b 特 別 寄 稿
白と黒で 2005

 2000年に「僕とみづきとせつない宇宙」という長篇小説を上梓した時、webに来てくれる方のためのノヴェルティというつもりで「Best Buy Chopin」というページを作った。この長篇を書いていた時に僕が聴いていたショパンのレコーディングについて思うことをあれこれ書いてみたもの。ところがこのページ、なぜかその後5年が過ぎた今も、見にきてくれる人が毎日いるという。コンテンツ自体はその時のままだし、実質その後は殆んどなんの手もかけていないわけだから、これは僕のサイトのなかではある意味いちばん優秀なページ、といってもいいくらいだ。

 そこで、意外にたくさんクラシック音楽の好きな人がこちらのサイトに来ているのかもしれないと思って、25ansで連載した「恋愛用オペラabc」のページにもリンクしてみたが、やはりショパン・ページのほうがたくさんのお客さんがある。うーん、ということは、みんなピアノのファンなのか?? 少しあれこれ考えてみたが、よく判らない。なんにしろクラシック音楽が好きな人が日々遊びにきてくれていることは確かなようなので、その感謝の意味も含めてひとつ、クラシックを主題にした新しい読み物を、今回は、webオリジナルで書いてみます。

 題して「白と黒で 2005」。これは、去年の僕の新刊「ミラノの犬、バルセローナの猫」に収めたピアノについてのコラムのうちの1本、「白と黒で」あの続篇ですよ、というつもり。


 N°1 我らの時代に

 10年ばかり前から僕は仮に「経済中心主義」と呼んでいるのだが、"中心主義"と仮に呼んだのはつまり、そこにある「それが全てだとか正しいとか、そんな大それた(=責任をともなう)ことは一切いわないが、そのかわりなんの反省もなく(!!) 実質上それを中心とする!」とでもいうような、絶妙の(笑)スタンスを捉えたかったわけだ。
 この呼称の妥当性はともかくも、そんな流儀で、今はあまりにも市場経済の論理が幅を利かせ、工業製品だけでなく、なんと本やレコードの世界にまでも及んでいる。本やレコードの内実はそもそも芸術作品で、芸術作品とは本来いわば嗜好品、個人性がもっとも発揮されるべきところなのだから、これは失笑を生むような“お門違い”なのだが、発展拡大を遂げた現在のマーケットでは大量生産・大量消費が可能な商品しか殆んど提供できなくなってきている、というのが現場の事実だ。

 確かに売れたり売れなかったりするさまざまなものを少しずつ作るより、限定されたいくつかのものをその間全員に買わせることができれば、売り手としては遙かに理に適っているだろう。そしてこれを、多くの識者が“洗練”と呼んで賞揚している。僕たちが生きている現代とは、こういう時代である。これを生き易い、と感じる人もいるだろう。むしろそう感じる人のほうが多いかもしれない。けれど大量生産・大量消費とは完全に真逆の(笑)このページを開いて、わざわざこのテクストにいま目を通して下さっているあなたは、さて、どうでしょう? そもそも僕の書くものは、そんな世の中をなんとも生きづらいと感じる全ての人に捧ぐ、といったところのものだろう…。

 実用品ならまだ効率性に基づいて作られるのも理に適うとしても、それと同じ方式で個々人のいわば精神の嗜好品でしかないはずの芸術作品までが作られるとすれば、それは感受性までも効率で測ってしまうような不気味な話になる。だいたい、ねぇ、だれが「効率よく感動したい」と思うだろう?

 「君の感動は効率的じゃないなぁ」

 なーんていわれても、困っちゃうのである。


まぁ、まず、これは読んどいて。(話はそれから)

表紙画像
ミラノの犬、バルセローナの猫

le chien à milan, le chat à barcelone
¥1,800+Tax 作品社刊
最新刊! 第3エッセイ集。

ピアノ、音楽関係のコラムとしては「白と黒で」「その時黄金の竪琴は鳴り響く」「歌が上手いとはどういうことか?」「終わりの魔法」などを収録。

旅と読書と犬と猫をモチーフに、リラックスしたクオリティ・タイムをお届け。。。
ただ、底流としては第2エッセイ集「シンプルな真実」(1995,「経済中心主義の脅威」収録)に通底する、社会性の高いコラムも随所に併せてイイ感じにちりばめられておりマス^^;


 N°2 パンドラの箱的転回

 計算なんかはるかに超えた、思いもよらない、極端にいえば自分でも訳の判らないところで感動するからこそ、初めてそれがほんとの感動たりうるのではないか。
「さぁ、ここで感動しろ!」といわれて感動できるなら、それはなんとも効率のいい話だが、そんな計算された感動は、本質的にどこか、おかしい。そんな感動は非人間的じゃないかとさえ僕は思う。まぁ、非人間的な感動、というのは殆んどオクシモラン、そんなものを「感動」と呼ぶ自体が変なのだが…。
 そもそも、芸術とは本来客観的には何の役にもたたないもので、そんなもんに感動したりする、という訳の判らない、非効率的な存在のあり方、というのが人間が他のなにものでもなく人間である、という明証であり、それこそが人間的である、ということのひとつの本質だろう。

 さて。我らが象牙の塔であり、霞を喰っているわけでもあるまいに、それでも一方ではやはり、永遠の子どものようにただひたすらにアポローンに奉仕することができるんだとしか思えない、人間離れしたマエストロたちのネヴァーランドであるからこそ、僕たちがかくも変わることなく、畏れ、敬い、愛することのできるクラシック音楽の世界とて、こんな時流の例外ではない。その時流との共存への先駆けとなったのが、たとえば例の黄色いラベルの「アダージョ・カラヤン」だろうし、計算尽くの=費用対効果に基づく「感動」をchurn outしまくる現代のアメリカを頂点とするポップ音楽の世界に対してさえ、質なんかではなく売り上げで、十分伍することができるんだと実証してしまったのが(笑)驚異の世界的大ヒットとなった、かのアンドレア・ボチェッリだ。コペルニクス的転回、ということばがあるが、カラヤンはグーテンベルク以来の転回、という形容を何かの記事で愛用していた。僕はこれを、パンドラの箱的転回、と呼ぶことにしよう。いちど開けるともう元には戻せない、黙示録の始まり、である(笑)





 N°3 歌の上手いおじさん。

 ボチェッリがはたしてクラシックの音楽家なのか、という疑問も確かにあるかもしれない。しかし単純にレパトワでみれば、大ヒットの余勢をかってオペラの全曲版だってしっかり録音している。そういえば以前「音楽の友」系の雑誌にボチェッリについてこう書いていた方があって非常に感心したのだが、曰く、
「ボチェッリは瞬間的に偉大なテノールを彷彿とさせる」
いや、じつにすばらしい。適切かつ十分で、しかもポジティヴ。プロの物書きであるからにはやはりこのくらいのイイコトをぜひ書いてみたいものである。
 残念ながらそんな冴えやブラヴーラは何もなく、比較するとなんだか厭になるのだが、僕のボチェッリに対する評価はごく素朴に“歌の上手いおじさん”というものだった。

 うーん、あまりにナイーヴないい草だがしかし、ボチェッリを聴いて僕がいちばん実感したことは逆に所謂従来のオペラ歌手、それもタイトル・ロールを歌うくらいの人ともなれば、彼らの歌というのは、ほんとうに端から端まで驚くほどコントロールされているのだなぁ、ということだった。もちろんボチェッリだってふつうの意味ではずいぶんよく歌を歌う人だろう。しかしそれは“歌の上手いおじさん”ということであって、所謂オペラ歌手というのはもっと全然違うレヴェルで歌を歌っている。ただ単にレコーディングを聴いていると、とくに名盤と呼ばれるものばかりを聴いていればいるほど、そこに収められた歌はあまりにも当然のことように聴こえてしまう場合も多い。時としてなんの危なげもなく楽々と歌われているとばかり思えるのだが、これが実はいかにとんでもないことか。その彼らの自由がどれほどたいへんなコントロールの上に成り立つものか。ボチェッリを聴けば僕のようなカジュアルな音楽ファンにもそれが手にとるように判る。これはたとえば、それこそ彼のプッチーニの全曲版、ああいうのを聴けばもう、だれの耳にもあきらかだろうから、そういう意味で、あれらのレコーディングは十分に一聴の価値がある。
 ただ、これは録音でにしろたいへん立派なオペラの演唱というものがどういうものかを予め知っていてはじめて感じる部分ではあるだろう。基本的なオペラ経験のない人は、ああいうボチェッリの演唱を聴いてもそんなことはとくに感じず、ふつうに感動し、むしろオペラ音楽の素晴らしさを発見するということだってあるかもしれない。そうなれば、それはそれでうんと結構なことだろう。




cover
いちどは聴いておきたい...
ボチェッリ版 トスカ全曲!



 N°4 下手な演奏で感動する、ということ。

 妙なことをいい出すようだが、僕は下手な演奏を聴いてむしろ感動する、ということがあると経験的に思っている。
 高校2年の時だったが、できるだけたくさんのコンサートに行ってみることにしたことがあった。心がけとしては「毎晩でも行く!」というつもりだったが、そうすると当然財力もなく、結果的には安いチケットのもの、友達が教わっている先生のお弟子さんの発表会みたいなものにもどんどん行ったし、楽屋口から侵入!という悪事にもそれなりに挑戦してみた(お薦めしません)。
 このお弟子さんたち、音大の受験生からせいぜいセミ・プロの彼ら演奏を聴いていて、不意に、意外にもものすごく感動することが、ある。ひとつにはこれは、こちらが低いレヴェルの音楽ファンであって、彼らの演奏の中にある苦労というのがとても身近に感じられ、共感する、その音楽性のなかに、ふだんレコードで聴いている巨匠たちの演奏より、はるかに自分自身に近いものが感じられる、そんな部分があるからだと思う。

 たとえば彼らが苦労して弾く。ややぎくしゃくと弾く。あるいはつっかえながら弾く。そうすると、レコードの名人たちがするすると弾いている演奏の中ではふだん目立たないような音楽の部分が結果的に立ち現れる、ということがある。それがたとえば僕自身がこの自分の低い音楽性で、譜面を読んでいたり遊び弾きしてみたりする中でどこか馴染みのある音楽、「そう、そう、そうだよね!」と思える、そんな音楽が不意にそこに見出される、そういうことがあるようだ。

 だいたい彼らが弾く曲の殆んどはクラシックのマスターピースなのだから、どんな一部分を取りだしてもたいてい何らかの面白さや美しさがそこにはある。また、そういうクラシックの曲というのはもう、とにかく曲自体がほんとうにずばぬけて素晴らしいので、再現者の技倆というより、その楽曲自体の力で十分感動できるものがある。プロが弾くと、その楽曲の素晴らしさに演奏者の力が上乗せされるということになり、どこまでがどちらの力なのか、見分けることは難しいし無意味だろうが、やや屈折した見方かもしれないけれど、あまり巧くない演奏をふと聴くと、その曲自体の素晴らしさに直接触れたような思いがして、不思議な、素朴な感動におそわれることがある。

 やや違う例だが、同じ高校の頃、ブラスバンドの演奏する「展覧会の絵」を聴きに行った時もそうだった。これは下手な演奏というわけではないが、ふだんさんざんラヴェルによるあのものすごいオーケストラ版を聴いているのだから、そこから弦がなくなるぶん表現力が減じても当然のブラスバンドの演奏に魅力があるとはとても思えず、かなりハスに構えて客席に着いたのだが、終曲「キエフの大門」に至って、図らずも席から立てないくらい感動してしまい、ほんとうに自分でもびっくりした。
 これも楽曲そのものの素晴らしさに直に触れたような気持ちのした経験だったが、だいたいクラシックでポピュラーな作品、それこそ所謂ホーム・クラシックと呼ばれるようなものは曲自身が、もうほんとうにだれが聴いてもいい曲であって、また殆んどだれが弾いてもいい曲でもある。音大生どころか、極端にいえばそのへんのふつうの高校生が弾いても感動することがあるだろう。










cover
絶後の名レコーディング
若き日のホロヴィッツ 展覧会の絵!
「子どもの頃、これを初めて聴いた時、全曲、立ったまま聴いてしまいました。(座るのを忘れていた)」


(次頁へ続く)

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