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 とにかく勉強ができる人は、勉強ができることがすばらしい、と往々にして無自覚に感じている。どうしてすばらしいのか、という問いかけがそこにないから、英語だって、喋れるのがすばらしい、となる。ほんとうに問題になるのは『何を喋るか』だが、話がそこ、本質的に問題になるところに至るとむしろお手上げ、だ。そしてそこでお手上げでいいのなら、なんと簡単なことよというか、ばかみたいな話だと思うのだ。
 だいたい喋れたからなんなんだ、と僕はいいたい。その前に喋るべき内容をもたなければ、そんな能力にはなんの意味もない。また、喋れることなどほんとうは何ほどのものでもない。
 以前よく、日本人は英語の読み書きはできるが喋ることができない、それは学校英語教育のせいである、などというタワゴトがしばしばまことしやかに語られたが、そんなことは絶対にない。ありえない。つまり、読み書きはできるが喋れない、などという珍妙なことは、だ。早い話、世界にはイリテラシーという問題はあっても、その反対はないのである。ほんとうに読み書きができるなら、いざとなれば筆談でだってコミュニケイションは可能なはずだ。昨今は喋る力をつける英語教育というのが行われているようだが、喋る力をつける、などといえば聞こえがいいが、実質は読み書きについては諦めて、喋るだけなら英語圏では、幼児でも可能なのだからせめてそこ、幼児レヴェルを目指すという、レヴェル・ダウンでしかないだろう。
 生きた英語、などといってばからしい口語なども大真面目に教えているようだが、そういうものは、関心があるやつだけが映画なり音楽なり旅行なりで、面白がって憶えればいいのであって、試験範囲の対象にされたりするものではない。だいたい教科書などというのはどこまでいっても野暮天なのだから、気の利いたことなどできない分際なのである。そもそも生きた英語、などということそれ自体、まったくのマヤカシであって、生活の中の必需品でなければ、つまり学ぶ立場ではなく生み出していく立場にない限り、そういう形でことばをもつことは不可能だ。生きた英語を教える、などというのはとんでもなく浅はかなことであって、それが耳に心地好く聞こえるとすれば、ほとんど詐欺まがいのいい草だろう。結局“死んだ英語”を追いかけつづけるだけのことだ。ネイティヴはこういうんだって、ああいうんだって、といわれれば、僕もことば好きである。「へー、そういうのか!」と面白く思う。でもそれは面白がることであって、憶えろとか憶えるべきだなどといわれる筋合いのものではない。そんな表現を憶え、よしんばネイティヴのようだと思われたからといって、たとえば困った無邪気者のアメリカ人に「おー、おまえはまるでアメリカ人のようだ!」と喜ばれたからといって、結局それがなんだというのだろう。
 結論をいえば、僕は日本人は日本人らしい英語を喋ればそれでいいと思っている。いや、それがいいと思っている。ネイティヴ・スピーカーでないことを当然の前提とした、日本人らしい英語だ。そういう英語をしっかり喋って受け入れられてこそ、初めて日本人は日本人として国際社会に「名誉ある地位を占める」のであって、もし可能であるならば、これほど国益に適うこともない。というと、僕のいうことは大雑把にくくればリベラルで、時としてソーシャリストのようでさえあるので意外の感があるかもしれないが、僕としてはこれは僕の常の考えと問題なくコンパチブルだ。
 アメリカ人に喜ばれることが英語を喋る目的ではない。極端にいえば、間違えてもいい。インターナショナルな言語としての英語を見ていると、母語別に、ある間違えの偏差というものは、やはりあるように思える。たとえば韓国人の英語を見るとわかりやすい。韓国人の英語の間違え方は、明らかに日本人とは違う。そしてそれは、母語に影響されるためだ。日本語と韓国語の文法構造は半ばおなじだから、その間違え方の異なりがとくに目につき易いということがあるのだと思うが、フランス人やドイツ人の英語にも、やはり同様のことはいえるだろう。あるいは発音の話になるが、たとえば韓国人の日本語を何も知らずに聞くと、おかしないい間違えをするものだと思うかもしれない。しかし韓国語を少し知ると、それは日本語上で韓国語式の、たとえば流音化等の音変化をしているに過ぎないことに気づいてなるほどなぁと感心することも多い。音変化は発音を容易にするために生まれてきたわけだから、その言語の感覚が判ればたいへん合理的に感じるものだ。逆に日本語から学んだ韓国語では、とくに単語末の子音ngとn、mがごちゃごちゃにり、ずいぶん物笑いの種にもされているようだがこれだって、やろうと思えば逆に日本語特有の音変化として論理的に説明できる。つまり、それは日本語の音変化の法則通りの、日本語から見れば理に適った間違い方(??)なのだ、と定義することもできる…。外国語を学んで喋ろうとする時に間違いを犯すのは、何もその人の頭が悪いとか努力が足りないからというよりも、まず、他言語の理解の基礎に母語があり、母語と外国語の間に“ずれ”があるからに過ぎない。と、こう書いてしまえばなんでもない、あたりまえの話だろう。
次頁へ続く)



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