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5.

“杉山利恵子”でネット検索をかけてみたのだが、彼女の前回の講座についてはまったくヒットしない。NHKがそういうリリースをネット上に出していないのはどういうわけか、と思う。ネットは公共のアーカイヴであり、文明とはまず情報の伝達なので(エヘン!)やるべきことはきちんとやってもらいたい>国営放送。それか、受信料を返してくれ。(わりと、マジ)
 その代わり、ラジオ講座の聴取者のみなさんのブログにいろいろヒットした。面白かったのは、英語、韓国語、フランス語、というわりと僕と同じやり方をしているひとが何人かいたことだ。全体を読んだわけではないけれど、口振り(書きぶり)からすると、おそらく語学とは違う畑なのだろうが、学校の先生とか研究者とか、そういう感じの人たちのようだ。
 それで、もっと面白かったのは、この熱心な語学を趣味としている人たちが、“発音フェチ”とまでいい切る僕は一旦ちょっと横へ置くとしても、たとえばこの杉山利恵子先生の、フランス語ではなく、日本語の部分に注目し、あれこれ言及していたことだ。当然だろう。外国語は彼女が先生でも、日本語はみんなの母語である。知的なレヴェルのわりと高い、しかも語学が好きで、3言語、4言語と並べて勉強した人たちが、日本語に対してもひとつの言語として自然に相対化して、その発音や語法に着目する、反応せずにいられるわけがない。
 杉山利恵子先生の講座についても、早速「〜の場合」を「ばわい」と発音している、「名字」を「みよじ」と発音していた、としている人がいて、こういうとなんだかただの揚げ足取りのようだが、必ずしもそうとばかりはいい切れない。同じフランス語の単語を、フランス語のなかで発音するときと、日本語のなかに混ぜて説明するときとで発音が変わるというような指摘をしている人もあった。
 揚げ足とりとばかりはいい切れない、というのも、外国語を覚える、ということは音に先入観を持たず聞こえたままに聞く、というという作業でまずある。それは自分の母語を相対化する、自分の母語の感覚から離れる、という作業でもある。どういうことか;フランス語や韓国語は、音変化がたいへん秩序立てられているといえるのでさておくとしても、英語や日本語の音変化というか、表記からの乖離というか(「音のくずれ」と呼ぶ人もいますね!)は、じつにものすごいものがある。アメリカ人や日本人が、それをすんなり聴いて即座に理解できるのは、英語や日本語として聴こうという耳ができているからで、それはその言語の基本的な音をいわば“あて込んで聞く”ということであり、その言語の音にはめ込んで聞くということであり、そこから零れる音を聞かない、認識しない、その言語の理解には不必要な音をいわば「雑音/ノイズ」として切り捨てている、ということでもある。


利恵子先生のご本、といえば...

NHK初めてのフランス旅行会話 NHK初めてのフランス旅行会話

杉山利恵子/著 ¥1.365日本放送出版協会 ; ISBN: 4140350555
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  • 6.

     外国語を勉強して、母語が多少相対化してくると、それまではっきりと聞き分けられなかったさまざまな音が、それぞれ固有の音として、そのまま聞こえてくるようになる。そうでなくても世界的にみて識別する音の数が異様なまでに限られている日本語である。その耳で、再び母語である日本語を聞くと、どうしても、ふつう日本人なら意識しない、さまざまな《ノイズ》が、クリアに特定の音として識別されて聞こえてくるようになる。
     杉山利恵子先生についての言及を探していて、結局それよりたくさん目についてしまったのが同じ語学講座でも、英語リスニング入門を担当していた西垣知佳子先生についての言及だった。これはこの国の英語人口とフランス語人口のスタティスティクスをそのまま反映しているだけのことかもしれないが、先ほどの、杉山利恵子先生の日本語部分への、ただの揚げ足取りとも思われかねない指摘をしていた人は、西垣知佳子先生については、たとえば
    「永遠にわびる」と言う際、 ei- と -en の間に glottal stop(のような音)を置いていた www5a.biglobe.ne.jp/~sunomono/iro0062.html
    #20030530132438

     と指摘していた。
     残念ながら、僕はこの回は聴いていないと思うが、この講座自体はわりに何度も聴いている。
     この西垣知佳子先生、英語はご専門なのでさておくとしても、彼女の日本語は確かになんというか、どうもいろいろ「ん…??」というビミョーな感じ、というか、その、語学好き、ことば好きにとっては非常に突っ込みどころ満載、な感じがじつは僕もしていた。といっても、これは批判的な意味ではなく、もっとこう、関心のなにもないひとのことは気にもならないが、どこか心惹かれるひとのことはあれこれ構いたくなる、ということがあると思うが、そういうような意味で、つまり、これは西垣先生の魅力のひとつである、という点をまず念頭においていただきたい。
     なるほど、と思わされるものだったので、屋上屋を重ねる代わりに、まず先ほどの方の指摘をさらに紹介させていただくと、
    《curl up with, は、具体的には、テキストの、 イラストを見てください。 どんな様子か、わかります》「どんな様子か」と「わかります」は、 本来はひとまとまりに言ってよいところだ。http://www5a.biglobe.ne.jp/~sunomono/
    iro0059.html#20030329110004

    《第二回目から、 第四回目の、 Listen for Details, one, two, three, では、 ニュースを、 三つのパートに分け、 それぞれのパートで言われている、 事実を、正確に、聞き取る練習をします》 と言っておられる。 このうち、「言われている」と「事実を」 の間にポーズがあるのが西垣先生の特徴だ。http://www5a.biglobe.ne.jp/~sunomono/
    iro0086.html#20040330093433

     これらは文の区切り方、後者など単なる読点の打ち方だけだが、あの“西垣知佳子の喋り口”をきいたことのある人なら、これだけで、十分その口調や声、抑揚までイメージできるものではないか。



    7.

     放送を聴いていない人に英語リスニング入門を担当していた西垣知佳子先生の日本語のビミョーな感じ、どう表現すればこれを伝えられるだろうか。
     それはまず、彼女の独特の文の区切り方とそれにともなって生じる抑揚から生まれている。区切り方の部分については前回紹介した指摘がうまく示唆していると思う。
     抑揚の部分は、文章にはなかなか捉えにくい。だからこそ“文字による物まね”というのは難しいのだが、あえてトライするとすれば、物まねの基本に「シグニチャーなフレーズは何か?」という着眼点があるだろう。特徴が典型的に目立つことばだ。
     西垣知佳子においては、まず同意を求める語尾の「ね」。「ですね」という時などの「ね」に、一般にはないストレスが見られる。結果としてそれは引き延ばされたり、ちょっとふしぎな感じでぐっと力がこもっていたり、息の音をともなったりしている。
     あるいは「如何でしたかァ?」。この問いかけは非常に多用されるのだが、それはたいてい殆んど最初の「い」の音をともなわない。実際にはほぼ「(ぃ)かがでしたかァ?」と発音されている――もちろん、これが日本語を母語とする人にはふつうに、ばっちり「如何でしたか?」と聞こえてしまう。これなどまさに、母語の音を当て込んで聴いてしまう一例になる。
     …うーん、少なくとも放送を聴いたことのある人にはどちらも「そう、そう!」と頷いてもらえるのではないだろうか? とにかく、なんというか、喋り口をきいているだけでも、たとえば高校時代の同級生たちが、
    「西垣、っておったやんか。あいつな、いまNHKのラジオ講座の先生やっとんで」「え、マジで? 西垣もなぁ、変わっとおからなー」などという会話を交わしている図が目に浮かぶ。いや、いかにもそんな感じがする、というかその、妙なたとえになったが、物まねがむりなら挿話でというか、喩え話しでどうだ?と思ったわけですね(笑)

     さて、ここで一旦話を中断して振り返ってみると、インターネット・サイトWorldClubのほう、online readingのページにも書いたことだが、僕が聴いた限りNHKラジオ英会話中でいちばんよかったのは、マーシャ・クラッカワー先生の講座だったと思う。旬の英語の取り込み方がすばらしく、放送を聴いた、もうすぐその週の内に、CNNなりハリウッド映画なりで、なにがしか放送でフィーチャーされていたいいまわしに出会った気がする。この点でマーシャ・クラッカワー講座はNHKのラジオ会話のなかで一頭地を抜いていた。聴いてよかったとすぐに思えるから楽しいし、実際に会話で使っても、非常にアメリカン、である(謎か?)CDブックも出ているので、英語の勉強をしたい人には推薦します。
     現行のリスニングとスピーキングに分けられたNHKラジオ2講座は、目新しくはあるが、結局内容が薄められただけ、という感がある。



    8.

     非常に洗練されたマーシャ・クラッカワー英会話最終年度に続いたぶんなお分が悪かったかもしれない。現行NHK ラジオ英語2講座、リスニングの前期は、それこそ「音のくずれ」などといって、こういう概念にはじめて触れる人にとっては新鮮だろうし、むかしはリンガフォンなど、高価な教材を買わなければなかなか難しかった勉強を身近にした、という意義はあるかもしれない。ただ、英語がたいへん音の脱落や変化が多く、字面通りには発音されない、という基本的なポイントさえ一旦のみこんでいれば、具体的には、かなりナチュラルなスピードに近かった旧英会話のダイアログを真面目に聴いていた人になら、自然に体得できたものだろう。
     スピーキングにいたっては、あえて日本語から発想させておいて、得々とこなれた英語、いわば“英語的な英語”を当てはめてみせる、という、実用という観点から考えると殆んど無意味な遠回り・臥薪嘗胆を強いる、星飛馬もびっくりのトレーニングをさせるもの。
     マーシャ・クラッカワー英会話で扱われていた例文は、前回説明したとおり鮮度のいいアメリカ英語であり、いわば“英語的な発想による英語的な表現”だったわけで(笑)まぁ、どういう英語を喋りたいのかにもよるのかもしれないが、現行スピーキング講座にどんな意味があるのか、僕にはどうも理解できない。大方の一般的な英語学習者だって、英語的な英語をできるだけ負担なく話したい、と思っているのではないだろうか。英語で話すとき、英語で発想して喋り、英語のまま理解するのがいちばん簡単なのはいうまでもない。いったん日本語で発想すれば、その分手間がかかるし、英語は難しくなる。
     英語で発想するのが難しい、と思うかもしれないが、ほんとは、難しいのは、まず日本語で発想してそれとおなじことを英語に求めることで、極端な話、英語でHi, Hello! といってその次がでてこなかったとすれば、それが自分の英語の発想のぜんぶになる。それで不自由を感じるとすれば、そこで頭を日本語にスゥイッチして、日本語だったらこうもああもいえるのに、と考えるからだ。いいたいこと自体を英語で考えれば、慣用的なこなれた表現にはなっていないにしろ、頭にあることはなんでも英語でいえる。というか、頭にあること自体ぜんぶ英語になる。
     あたりまえの話ばかりで恐縮だけど、英語には難しい英語もあれば、簡単な英語もある。難しく感じるとすれば、難しい英語を喋ろうとしているからで、どうして得意でもない外国語でわざわざ難しいことを喋ろうとするかといえば、日本語でまず発想しそれに近い英語を考えるからだ。この遠回りで負担の多い無意味にマゾマゾしい(笑)方法から離れるどころか、逆にあくまでもスティックし、手を変え品を変え連日くり返し学習させようというのが現行のスピーキング講座で、いわばこれはもう、殆んど毎回がとんち比べか意地悪なぞなぞみたいなもんだから(笑)こんなもの、平気で放送する方も真面目に聴取する方も、悪い冗談としか思えない。



    9.

     慣用的な表現、所謂英語的なこなれた表現は、やはり憶えるしかない。でもそれは英語で憶えればいいんで、なにもそこをいったん「日本語にこういう表現がありますね、あえてこれに近いものを慣用的な英語表現のなかに探すとすれば…こういうものがあります!」というアプローチは、どう考えても回り道であって、実用的な日々の勉強法というよりは、せいぜい趣味として楽しむ、頭の体操か、なぞなぞみたいなものと考えるべきだろう。
     ところで、現行NHKスピーキング講座にかんし「星飛馬もびっくり!」などと思わず口走ったのは、もちろん僕の念頭に、例の《大リーグ・ボール養成ギプス》というのがあったからだ。一芸に秀でるということはこういう艱難辛苦に耐えてこそなのだ、というか、ストイシズムの象徴のような感じで、ものすごい刷り込み効果が子どもにはあったのではないか、といまにして思うが、僕はこの《大リーグ・ボール養成ギプス》というものの効用をあまり信用していない。
     それはたとえば僕がいろいろ楽器をやってきた経験からで、なんども実感したのだが、たとえば子どもの練習用のヴァイオリンを弾いていてある日、まぁ50万円程度のものでもいい、少しマシな楽器を弾いてみると、自分でも驚くほどいい音が楽に出る。白玉1コのロング・ボウでいいなら、僕が弾いたっていいヴァイオリンからはいい音が出る。管楽器もそうで、特にヤマハのような扱い易さにウェイトをおいてつくられている楽器だとてきめんだが、安い楽器を吹いていて、高い楽器を吹くと、いままでの苦労はなんだったんだ、と気が遠くなる(笑)。特にヤマハ、といったのは、いい楽器といったって、それこそ、じゃあストラディヴァリウスを弾いてみたらどうなんだ、という話がひとつあると思うからだ。これについては、ストラディヴァリウスはいうまでもなく、より容易でより簡便でというひとつの効率主義が狂ったように追求されている20世紀終盤以降のロジックとはまったく違ったロジックに基づいてつくられた楽器だからだ、ということができる。簡単にいい音が出る、というのが現代の合理なら、留保なしにとにかく最高にいい音が出る、というのだって合理だろう。後者のロジックに従ってこれまで芸術は営まれてきたのであって、現代の合理にフィットする芸術を求めることは、いってみれば、いちばんおいしいハンバーガーを探すというような話かもしれない。いくらおいしいといっても、それはあくまで「ハンバーガーのなかでは」という限定がつく…。
     楽器の経験のない人なら、テニスのラケットやスキーの板でも同じようなことがいえるだろう。僕は実は数年前に、大学時代のプリンスのデカラケ以来(古い話で恐縮です)久しぶりに、ヴィーナス・ウイリアムスと同じ色の(結局ミーハーで恐縮です)ウイルソンのハイパー・ハンマーというのを買ってみたのだが、あまりの違いに愕然とした。ここまでのインターヴァルはなかなかないだろうから、さほど意識しないかもしれないが、道具の進歩って、恐ろしいほどだ。そういえば、ソ連があれほど手こずったアフガンをアメリカは一気に陥落させたが、あれもこの間に兵器がまさに恐ろしいくらい進歩したためなのだろう…。



    10.

     兵器はともかく、楽器やスポーツの道具でいうと、いい道具を使えば、たいていはがくんとレヴェルが上がる。けれど悪い道具をより長く使って練習した方が、いい道具に変えたときその分高いレヴェルから始められる、ということは殆んどないのではないか。そしていい道具を使えば楽に達成できるレヴェルが比較において高いとはいっても、そこから上の努力はまたすることになる。だから、養いたいのがある技術であって我慢強さや精神力でないなら、いい道具があれば最初からそれを使ってその上のレヴェル、より高いレヴェルの努力なり練習を、最初からするのがはるかに理に適っているだろう。そういうわけで、僕は《大リーグ・ボール養成ギプス》的な、避けられる負担をあえてかけて鍛錬する、という類の方法の効用に疑問を持っている。
     その当否はともかく、ラジオ英会話現行2講座でやっている内容は、同等か、むしろよほど無駄のない集中的なかたちで旧英会話1番組で十分学べたもので、時間的にもこちらのほうが当然短く、ふたつに分けられ内容が薄められた、という僕の印象はここからくる。
     リスニング前期は、いちどくらいこういう講座に触れておくことは意味があるだろうし、スピーキングだって、何年も英語を勉強し続ける人にとっては、1年くらいこういう目先が変わったものを聴いてみるのも面白いかもしれない。けれどこの2講座を、シグニチャーな番組として何年も継続するNHK教育ラジオの見識を疑う。率直にいって。過ちは、改めるに如くはなし。
     スピーキング講座が成立した背景についてもう少し考えると、従来の教科書的な英語はむしろ英語自体の勉強のためのものだから、会話に使うには不自然だし、内容としても実際に自分のいってみたい内容ではない、という学習者の不満を踏まえたものだろう。ここまではいいと僕も思う。でも、それをそのまま、みんなが喋りたくなるような内容をまず日本語で発想させておいて、それに見合う会話的なこなれた英語を当てはめてみせることは、一見従来の問題・不満を一気に解決しているようでも、実際にはいわば“こなれた日本語”から“こなれた英語”へという大跳躍を強いることになる。だから結果的にとんち比べか意地悪なぞなぞになってしまうわけで、どうしてもこれはむりがある。こなれた、会話的な英語を喋ることが目的なら、その英語的な発想をそのまま身につけることに集中すればいいんで、それとこなれた日本語との対応なんて、ほんとは問題ではない。そんなところへ引きつけては、負担が増えるだけだろう。
     とにかく時間効率からいっても、ダイアログの内容からも、現行ラジオ2講座を聴くくらいなら、マーシャ・クラッカワー先生のCDブックを毎日聴いた方が、TVや映画を観るにもアメリカ人と話すにも、50倍くらいは役に立つだろう。最終年だけでなく、その前年、前々年、前々々年と、CDブックになっているから、その気になれば、聴くほどある(笑)


    coverだれでもラジオ英会話NHK CD‐extra book
    マーシャ・クラッカワー/著
    ¥3,570 日本放送出版協会 ; ISBN: 4140393866

    コメント 非常に洗練された、マーシャ・クラッカワーNHKラジオ英会話最終年度。CNNやハリウッド映画を観ていると聞こえてくる表現がいっぱいに盛り込んである。マーシャ・クラッカワー先生の旬の英語への見識と、研鑽に敬服。リスニングとスピーキングに分けられ薄められた現行のNHK英会話を聞くぐらいなら、時間効率からいっても、ダイアログの内容からも、この1冊をやった方がTVや映画を観るにもアメリカ人と話すにも、50倍くらいは役に立つと思いますよ。

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    11.

     さらに思い出の小径を辿るなら、NHKの英会話中、これは教育TVになるが、とても印象に残っているものに英会話上級、というのあった。いまではこれまた僕にはどうも存在理由のよく判らない、ビジネス英会話みたいなものに取って代わられている講座だ。ビジネス英会話についても簡単に論難しておくと(笑)あのレヴェルの英語を日常的に使う必要が現実にある人があの講座を実際に必要としているとは思えないし、日常的にああいう英語を使う必要が現実にない人が聴くとすれば、あの講座は、ほんとうは無意味で退屈だと思う。なのに、ああいう講座が成立するのは「ビジネス英会話ができるといいのではないか?」という実は根拠もないただの無責任なイメージに翻弄されている人たちの心につけ込んでいるからだ。乱暴だが、まずこういっておこう。それにひきかえ、英会話上級はすばらしかった。
     毎回ひとりの人に、自分の仕事について話してもらうというのが番組の主旨で、テキストは単なるそのトランスクリプションだった。
     なにがよかったって、まずボキャブラリィ・ビルドの点でいうと、月ごとにたとえば医療関係者とか、教育関係、農業と、ある職種でのまとまりをつけてあったのだが、たとえば、病気の名前や農薬などといった、ウロおぼえになりがちな単語がその専門の人から、つまり生きたかたちで使われる・発語されるのを耳にすることができた。これは実際にアメリカに住んでいても、こう効率よく幅広く、というわけにはいかない言語経験だったと思う。次に20分間とはいえ殆んどインタヴューイーのことばだけで構成されていたから、話はただ仕事のことにとどまらず、往々にして意外に深いところ、人生観や宗教観といった抽象的なところに及んでいた。実際にアメリカ人と友達になっても、ああ胸襟を開いた、深い、抽象度の高いところまでの話が聞けるだろうか。ここまでインテンシヴに話をきくことは友達でもそうはないだろう。しかもこんなにまで多種多様な人からと考えると、通常は不可能、といっていい。編集されているだろうがそれでもそもそも限られた時間に、ここまで深い話になるということも、やはりインタヴュー番組、という特殊な状況があってはじめて可能だったことだろう。
     こういうと、ならラリー・キング・ライヴでいいんじゃないの、と思う人もいるかもしれないが、あれはやはり丁々発止、はいい過ぎとしても、かなりショウの世界でもあり、ラリー・キングが腕を振るう(?)番組でもある。また出演者も、芸能人ではなくとも、やはり何らかのいま話題の人たちだ。一方英会話上級に出ていたのは殆んどがまったくの市井のアメリカ人で、彼らがこのおそらく珍しい機会に、作り込まれたものでない、実直な、ごくけれん味のないことばで語る。そういうものだった。生きたことば、とはよくいうが、インタヴュー馴れしていない、即ち長時間自分の考えを一方的に聞かれるという経験の殆んどない人が、誠実に自分を表現していくうちに、問わず語りに出てくる本心、自分でも初めて見つける自分のことば…つまり、ほんとうのことばが生まれてくる瞬間、といっていいようなものさえ毎回期待できるような番組だった。



    次頁へ続く)

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