un bout d'hier 95 ~ le dix juillet 2005
en blanc et noir 8

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白と黒で2005 8e 人生のチョコレート・ムース。
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出世作となった例のドキュメンタリー番組中でも「少しくらい間違えたって構やしないわよ、機械じゃないんだからサ」とはっきり明言していたフジコ・へミング。こういう本当のことをきっぱりいうところ、いってしまえるところが、結果的には痛快で、彼女のポピュラーな人気をまたまたブーストするのだろう。 きっぱりと私。どこまでも私。音楽だけでなく、そういう彼女の人柄、生き方がこのいまのこの国で、大きな魅力となって、彼女の人気を広げているのだろう。彼女のように生きてみたい。そんな憧れを持つ人は決して少なくないのではないか。芸術家としての才能は天与のものだから真似できないとしても、生き方だけでも彼女のように、いわば自由に生きてみたい。そう思う人は。その憧れは嘘ではないだろう。だが実際にそうする人は多くはないだろう。当たり前といえばごくごく当たり前の話だろうが、このあたりがじつはやっぱりミソであるようにも思える。憧れはするし、その憧れは真実なのだろうが、実際に彼女のように生きようとする人はそうはいない、それはなぜか。ひとつには、彼女の人生はこうして最後に大成功を収めた。けれどこれはだれにでも起こることではない。よしんば才能があったとしてさえ、成功はそれで保証されるものではない。明らかに才能よりも、むしろたいへんな幸運によるものだ。もしも彼女のように自由に生きられたとしても、彼女のように成功しないとしたら…こう思うことはそう不思議ではないかもしれない。
しかし、考えてみたいのは、彼女の人生が素晴らしいものだとすれば、それは最後に彼女が成功したからなのか、ということだ。だとすれば、彼女の波乱に満ちた半生は、その最後の成功にいわば味わいを添えるもの、たとえばチョコレートムースのようなものなのだろうか? そうではなくて、あえて無理矢理そのどちらかで択らぶなら、むしろ彼女の最後の成功こそがチョコレートムースなのではないのか。そう僕は思うのだがどうだろう。彼女の人生が、もし素晴らしい人生(第3者から見て)であるとするなら、それは何も彼女が最後に成功したからではない。もし成功せずに終わっていても、彼女の人生はじゅうぶん“素晴らしい人生”だったのではなかったか。
一体自分は彼女の人生の何に憧れているのか。彼女の人生に憧れる人は、このあたりをしっかり自問してこそいいだろう。もし最後の成功とセットになっていて初めて彼女の人生に憧れる、というなら、それはいわばその憧れ自体、人生の中のチョコレート・ムースのようなものでしかない。だからだめだ、とは思わないが、それ以上のものでもそれ以下のものでもないだろう。
結局憧れているのは成功で、しかも成功がこういう経過の上にあるとなお素晴らしい、というのは確かに夢想としては愉しいが、ずいぶん贅沢な話でもあり、呑気な話でもあるだろう。こういう考え方を平気でする人には音楽は判らない、とも勿論思わないが、そこには、ある《判り方の偏差》みたいなものはあるかもしれない。

...a suivre

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