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白と黒で2005 6e そして上原彩子。
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クラシックファンにはあえてブリーフも無用だろうが、この上原さんという人は日本人で初めてチャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で1等をとった人で、しかも女性。と強調するのは、ご存知の通りピアノはアコースティックの楽器のなかでも最もばかでかい部類であり、歴史的に決して女性向きの楽器とは考えられてはいない。…しかし人口のはんぶんが女性であることを考えれば、近代において女性向きと考えられていたものごとの種類自体がそもそも異様に少なかったのではないか、とも思う。
説明ついでに、リストといえばまず技巧的に難しいピアノ曲を書いた人、というイメージがある。だからもしメフィストワルツを聴いたことのない人が、この曲を狂ったように弾いているというとつまりそういう技巧的な曲を華麗に弾いていたんだな、と思ってもそれでまずはOK、だ。ただリストは、そういう表層の技巧性の問題から逆に考えられる普遍性、それとベルリオーズ、パガニーニからリストを踏まえR.シュトラウスと行くこのひとつの“音楽の流れ”との関係;また後に国民楽派というひとつのかたまりとして大きく捉えられる音楽史上の潮流にもつながるその民族性/エスノ志向の持つ意味あい;皮相的なものと片づけられかねないが、その宗教、キリスト教、説話に材を採る作品群の存在について&c…と、いろいろに面白い長いエッセイが、リストの音楽を軸としてひとつ書けそうな気がするし、書いておいた方がいいような気もする。同時代のピアノ曲の一方の雄・ショパンの音楽が現代も、いかにメランコリックでエゴセントリックで社会性に欠け少女趣味だと揶揄されはしても、その精神性の深さを否定することはだれにもできない一方で、華麗でマスキュリンなリストの音楽は、その精神性を問題にされることは多くはない。確かに、そんな扱いを受けても仕方ないようなところがあるわけだが:確かに薄っぺらかもしれないが、その含みのない清浄なリリシズムが時々僕は恋しい。…このあたりはしかしまた別の話、今回の本筋とはいささか離れた小道となろう。
上原さんの話であった。
そのチャイコフスキー・コンクールの時の映像、これは僕はちらちらとしか見ていないのだが、その限りでは、もう、顎が外れるくらい驚いたというか、殆んど人間が弾いているとも思えなかった…。つまり、先に少し問題にした上手い・上手くない、ということでいうならば、上手いということにかけては、もう、めちゃくちゃ上手い、というのがこの上原彩子である。リストの難曲を狂ったように弾いていたというのをまずそのまま、額面通りにとってもらって結構、というのも、僕のそもそものイメージがそういう、やたら上手い人、というものだったからだ。
...a suivre
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